子どもとお手伝い
子どもの学び、遊び、に続いて「お手伝い」。今の子、お手伝いしないそうだ。うちの娘たちに「手伝え!」というと「エー、お手伝いする子なんて普通いないよ」・・・ホントカネ?「ヨソはヨソ、ウチはウチ、頑固もののお母さんをもったと思ってあきらめなさい」、というわけで渋々動き始める。
私が子どもの頃のお手伝いで好きだったのは、薪のお風呂を沸かすこと。まず、灰をかき出して中をきれいにする。ちらしをかるくまるめて火をつける。次に薪のささくれ、そして薪をくべてゆく。薪にしっかり火がついたら、最後は石炭。火が燃えてゆくのを見ているのは楽しかった。だから火おこしは実はとてもうまい。炭熾しは得意とわが社の社長がいばっていたけれど・・・多分、私の方がうまいと思う・・・!?というのはま、いいとして、「お手伝い」をすることで生活の方法が自然に身についてゆく。
今の子ども、「勉強しない」・「遊ばない」・「手伝わない」・・・こりゃニートが増えるわけだ。
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Comments
定職に就かずとも働くのがフリーターだが、そもそもええ歳こいでも働きもしないという新階層のニートが登場したので、がぜんフリーターがえらく思えるようになった。
私はバブルの就職楽勝時代のモラトリアム世代でどこの会社にもいるお馬鹿社員の一人だが。今振り返るとなんとフリーターの走りであった。
しかも学生中は、女子大生がとてもえらい時代だったので、私などは、(今となっては死語ではあるが)アッシーの一人であった。
ちなみに幼少期は名犬ラッシーが好きだったが長じてアッシーになるとは思いもよらないことであった。
しかし、みごとに更正し、今日では、日々原稿の校正までできる身分となったが。
はたして、ニート君らには、フリーターのように更正できる未来はあるのだろうか。
たぶん、残念ながら「ない」のであろう。
なぜなら、良家の師弟や、甘い親に育てられた子どもらがニートになるのではなくて、その多くはうちが貧乏で親も出来損ないで生活環境もよろしくなく、学校も悪ければ勉強もできず、もちろん進学もしなければ、手に職もあろうはずがなく、パソコンなどもできないし、要するに何もない。その上、たいして意欲もない。
就職活動といってもバイト口があるかどうか。気が利かないので、どこいってもはじきだされるしと。
要するに、社会階層化の現象の一つである可能性が高いと言われているのである。
一方、最近みな気が付きはじめているのであるが、良い学校のお嬢さんは、そうでないところと比べるとがぜんきれいである。
あまりにも俗っぽいので嫌になるが、ええとこのぼんがべっぴんさんと結婚するということを数世代重ねた結果、元もそこそこよくなっているところに、化粧技術を身に付け、センス向上の環境にもありと。海外旅行やらなんやらで語学力もあり、知見も高まり、頭も良いと・・・。
さらに俗っぽくて、ますますもって嫌いだが、勝ち組、負け組という言葉にあるように、確かに、なにやら好循環型と悪循環型に分離しつつある世の中・・・。
良家の子女はきっちりと「手伝え」としつけられ、馬鹿親の子女は、いっそう馬鹿になると。
欧州の身分社会では、階層別に平均身長が異なるという・・・。戦後民主教育の流れを組むわれわれには、平等幻想を打ち砕く現実は、たぶん目を覆い、別の理屈にとびつくのであろうか。
ちなみに有史以来人類に身分がなかった時代などあるのだろうか。秩序ある社会と身分社会は実はイコールなのかもしれないと思う今日この頃であります。
ニート、これは個人の問題ではなく、社会構造の変化の予兆というべきものであります。
Posted by: rompal | May 12, 2005 at 12:19 AM
rompalさん
コメントありがとうございます。
「学校で勉強をしたい」と言っているアフガニスタンやイラクの子どもたち、その日の暮らしのために必死で働く子どもたちを見てると「豊かさ」って一体なんだろう・・・次世代の子どもたちが元気ないのは、やっぱり大人の責任かなとちょっとカナシクなります。
Posted by: 永山 淑子 | May 13, 2005 at 12:52 PM